2012年03月23日

◆心の健康会議感想。そして脱線「心は私の中にあるのか?」

20日に日本臨床心理士資格認定協会主催の「こころの健康会議」が長野市でありました。

基調講演は、山崎正和氏(大阪大学名誉教授、文明評論家)で
演題は「心は私の中にあるのか」。
これが。ワタクシにとっては、相当ヒットで!

どういう話だったかというと、えっと、私の限られた理解の範囲で、私の乏しい言葉で説明しますと…

心の機能(思いつき、共感、価値観など)は私の中から出てくるものではなく、
私たちがその「心」の中に居るといってもいい。…A
しかし、一方"私"とは連続性のある存在だという考え方に基づき社会の仕組みは成り立っており
契約や責任を考えるときには、心を内側に持っている"私"という考え方が前提にある…B
このAとBの両方の考え方が、現在、社会の中で生きており、
哲学はずっと心は私の内側にあるのか?私とはどういうものかと考えてきたけれど、
この二つの考え方は統合できないままである。


そう。そう、そう、そう。
良く分かります!先生!
そうなんだ。矛盾する二つの考えがあるから、混乱するんだ。

その先の山崎氏のお話は。

心の病は「(勝手に)なる」ものであり、Aの考え方で説明できる。
臨床心理士が受容的な態度で病気になった人に接するのは大事なことだろう。
しかし、責任ある社会人としての態度はBの考え方でなくてはもてない。
Bの考え方で人と接する場合、甘えるな、責任を果たせと言うことも必要になる。
病気の人と、単なる甘えの人では接し方が変わるべきで、
その見分けを臨床心理士に期待したい。


…ん~~~~~。
前半凄く良かったのになあ。あれ~?そうきちゃうの~?って感じ。
何が腑に落ちないかというと、
①病気と甘えている(ように見える)のとは明確に分けられる別の状態ではなく、
連続しているというか程度の違いのような気がするんだよな~
甘えているように見える人にも、その自分の力ではどうにもできない「心」の働きは影響していると思うんだよな~
②確かに社会を維持するのにBの考え方が大事なのは分かるけど、
B偏重で、今の社会体制の維持だけに重心がいっちゃったから、
私たちの心が不自由で病んだ状態になっているのではなくて?
Aを生かして、より一人ひとりの生きやすい社会にするという方向性がほしいのではなくて?
旧来然の「責任もて」「がんばれ」じゃ、解決できない問題がいっぱいあるんじゃない?
③臨床心理士の仕事へのイメージって、そんなもんなんだ~。
ひたすら甘やかしていいよいいよって聞いているってイメージなのね。
ま、こんだけの学識経験者がそう思っているからには(おじいちゃんだけどね!←老人に厳しいワシ)
一般の人もそう思っているんだろうなあ。

でも、全体的には、前半の話が私にはとてもヒットだったので、
聞けてよかった講演でした。
何がどうヒットだったかを、熱く語るよ!長いよ!

*****

私も最近とくにそう思っていたのだけれど、
「考え」とか「気分」とかは、私だけのものじゃない気がするんですよ。

例えば、他の人と思っていることが重なって、
何か口に出すと、相手が「私も今そう思ってた!」って言うことあるし、
嬉しいとか、悲しいとか、感情って移るし。
それは、誰でも体験があることだと思いますが。

それもその思い付きが、だれか一人の頭の中に生まれたわけじゃなくて、
なんか、そこに居る人たちの間に共通のものとして、
そのへんに沸いてくる(雲のように流れてくる?)ような気がするの。

私はたぶん、その共通のものを感じる力は割と強いと思います。
自覚ないんだけど。
自覚ないから、自分がいいこと思いついたと思い込んでいたけど、良く考えたら違うみたいです。
ある人と一緒になったときだけあるタイプの思い付きが良く出るとか、
ある人が場に加わったらとたんに自分の考え方が変わったとか、
しょっちゅう。しょっちゅう。
おかげさまで、場によって言うことがコロコロ変わる困った人になります。
色々な人に迷惑かけました。たぶん…。

ま、浮かんでいる考えをキャッチしやすい各人の経験の違いや思考パターンの有無とかはあるだろうし、
それを言語化や表現する能力にも個人差はあると思います。
私のイメージでは、ラジオですね。
チューニングの合いやすい周波数の違いとか、スピーカーの性能とか、
そういう個別の要素はあるものの、
飛んでいる電波を拾って音にしている。

私たちが、自分の考え、自分の気持ちっておもっていることって
そういう「沸いてくる、流れてくる」ものだってことが多いんじゃないかな~って思います。

ちなみに、ローズ・ローズトゥリーさんの言う「エンパシー能力(共感能力)」って、これに近いかもしれません。
その人に言わせると、日本人は高い割合でその力をもっているそうですが。
そんな超能力的な扱いにしなくても、(私のように)無自覚で、でもその共感能力を使ったり、
それに振り回されたりしている人は、結構居るんじゃないかって思います。
程度の差はあるでしょうけどね。

ま、とにかくそういうことで、
私の考えは、私独自のものだとは言えないと、
最近とても思っていたのです。

山崎先生のお話で、それがずっと哲学のテーマだったというが分かり、
なんかとってもワクワクしたのです。
哲学って、面白いな~!
(後半で、哲学的思索の結果を実際の生活に生かすことの難しさも感じたけどね^^;)

*****

私のやっているディクシャ(ワンネス・ブレッシング)を学ぶ中で、教えてもらった考えのひとつに以下のようなものがあります。

「考えは、私のものではない」

他にも「体は私のものではない」「私は存在しない」とか続くんだけど、
私はこれがずーーーと腑に落ちなかったんです。
なんというか、説明されていることは分かるんだけど、ピンとこなくて、でも引っかかって、
インドに行ったときも随分ダーサジ(指導してくれるお弟子さん)に突っかかったし、
ずっと分からない分からないと思っていたことだったんだけど、
…最近、分かる気がします。

浮かんでくる考えに自己同一視する度合いが減ったということでは、
嬉しい変化だと思っています。

話はそれるけど、
「全然意味がわかんなくて、でも引っかかって気になるから、分かんない!って怒る」ことって、
私にとってかなり大事なことのような気がしています。
例えば、「次元」の考え方とかね。
スピ話では、良く、「次元上昇する」とか「5次元の世界では…」とか言われちゃって、これもさっぱりわかんなくて。
これまた次元の表面的な意味とかは分かるんですよ。でも、腑に落ちないの。
つまり、何がどうなるってこと!?何を言いたいの!?って、次元って言葉を使われるたびにカチンときてました(笑)
これも、最近私のなかで収まりがついてきたというか、
私なりの理解が、まだ言葉で説明はできないんだけど、できてきたような気がします。
だから、昔ほどは、もうつっかからないw
「考えは私のものではない」も「次元」も、腑に落ちてみると、凄く私にとって大事な視点というかテーマのようです。
面白いなあって思います。

*****

さて、考えが私のものでないのなら。
私が思いついて口にすることは、私のものではないのだから、私が責任をもつ必要はないのでしょうか?

最近私が引っかかっているのは、この辺で。

トランス状態になって、霊的な存在の言葉をチャネリングしちゃう人もいるわけで、
そういう人がどこまでその言葉にしたことに責任を取れるのかしら?
私のように、意識があって、自分の考えだと思い込んで言葉にしている人の場合、
その発言にはどこまで責任を持つべきなのかしら?

責任はないという説の人もいるのですが、
私はやっぱりそうは言えないんです。
この社会に生きていて、聞く人への影響力があって、ましてビジネスなどの社会的な場面では、
そんなこといってられないでしょう。

私の言ったことは、やっぱり私を通して表現したということで、私は責任を持ちたい。
思いついても言わないという選択もできたわけだし、
それを相手に伝えようという意志は私にあったわけだし。
私はラジオかもしれないけど、意志のあるラジオだと感じるのですよ。

じゃ、トランス状態でチャネリングする人はどうなんだ?
そうじゃなくたって意識が緩んだときにふっと思いつくってことはたくさんあって、
どのくらい意識的であったら、自分の発言として責任取れるんだ?

つか、そもそも意識とか、意志ってなんなんだ?
それも「私」なのか?
そのまえに、責任ってなによ?
自分の発言に責任取るって、どういうことなのよ?

…混乱してきます。

山崎先生のお話が、私にとって面白かったのは、
その私が混乱しているところに、一つの明確な視点を与えてくれたからだと思うのです。

「考えは私ではない」とも言えるけど、
「考えは私のものである」も大事。
両方が今の私たちの生活には使われている。

混乱するのは、当然といえば当然。
今の社会では、そこが矛盾したまま両方「正解」になっているんですもの。
私の混乱は社会の混乱とも言える。
混乱を解いてゆくのに、とても役に立つ考え方だと感じたのです。

*****

ここは山崎先生には十分理解していただいていないところだったと思うけれど、
心理臨床って、その矛盾の両方に足をつっこんで居ることなんですよ、きっと。

心の病になった人は、
「私」にはどうにもできない「心」が、いわば入ってきて「病気になる」んだけど、
でも、社会には「自分の心には自分が責任を持つ」風潮があって、
その間で苦しむんですよね。
その社会の風潮を無視して、外側の心の世界でだけ生きていられるなら、それもいいのかもしれないけれど、
でも、やっぱり社会で責任ある個人として生きていくことは大事なわけです。

心理臨床家は、その両方を知っていて、その両方でバランスをとって、
クライエントさんが、自分のバランスポイントを見つけることを手助けするんだと思うんですよ。
どっかで切り分けちゃいけないの。
切り分けないで、全体を生きることを助けるんだと思うの。

心が外側にあること(ワンネス?)の豊かさや安心感も知りつつ、
同時に個人を個別のものとして考えることの意味や価値も分かっている。
現実も生きられるバランス感覚がなくとてはいけない。

こんなことを河合隼雄先生が良く書いていたような気がするなあ…
と、これまた私の考えではない自覚はアリアリなのですが。
そういうことなんだ。
河合先生、さすが深いべ…
と、いまさらながらに、もう少し深く納得した私でした。

***** *****

心の健康会議の後半のコンテンツ「シンポジウム「《生きる》ということの心理臨床」の感想も書こうかしら。

シンポジスト3人が3人とも、事例(実際のクライエントとの関わり)から、このテーマを話したことが、私には興味深かった。
データじゃないんだよ。
件数とか、平均値とか、傾向じゃ、こういうことは話せないんだな。
事業概要とか、プランや実績って感じじゃないんだな。
やっぱり、実際に「生きている(た)」クライエントさんのありようとか、
その人と一定の時間共に生きた自分の体験とか、
そういう具体的で個別的なことから話したくなることなんだ。

生きるって、本当に生きていることで、感じることで、
私たちの中で認識される体験なんだろうな~
と、思いました。

テーマ大きいよね。










  

Posted by カレイドスコープ みずほ at 18:00Comments(0)