お医者に行って、障害に関する診断書を書いてもらう必要ができた。
あ~~~~今からナーバス。
診断書の用紙を見て、
「洋服の着脱はできるかできないか?」
「階段の上り下りはできるかできないか?」
というような質問項目が並んでいるのをみると、げんなりする。
この「できるか?できないか?」ってのが、微妙なのよ。
今回の診断書は親切に4つの選択肢がある。
できる。できるが時に介助を要する。介助があればなんとかできる。できない。
うろ覚えだけど、こんな感じ。
まあ、できるできない2分類だけよりはマシだけどさ。
私の場合、たとえば階段。
上れといわれたら上りますよ。でも、自分で選んでは上らない。アパートだって2階以上の部屋は最初から候補にいれないし、階段のあるお店は極力選ばない。がんばって階段上った後は、いつも以上に足を養生する。
これは「できる」っていうのか?「できない」っていうのか?
そして、同じような体の条件でも、昔はもっと自己主張しなかったので、今よりもっと階段使っていた。自己主張?まあ、自分自身に親切じゃなかったというか。それは、今より「できる」なのか??
「介助があればなんとかできる」にしたら、すむ問題なのか???
なんといえばいいんだ。
このもやっと感。
「できる」って何なんだ?
私のできること。しゃべること。これは間違いなく「できる」だろう(笑)
でも、私には「しゃべれと言われたらどうにか下手でもしゃべるけど、極力しゃべりたくないし、それによって活動範囲を狭めるほどしゃべるのが大変」という人のことは、たぶん実感を持っては分からない。
しゃべるのが苦じゃない私には、一応しゃべっているけれどそれはかなり努力して他の何かを犠牲にするほどのエネルギー使っている結果なんだって人のことは、分からない。
私の階段も(そのほかのあらゆることも)、階段を苦に感じない人にはそういうことんなんだと思う。
しゃべってるじゃん、階段使えるじゃん、できるじゃん!といわれてしまったときの、この人の「やりたくない気持ち」とか「活動範囲が狭まるほど苦労」「他の何かを犠牲にするほどエネルギー使っちゃうほど大変」は、どうなっちゃうの?
ついでに、私の障害は生まれつきなので、逆に苦なく意識する必要なく階段を使える状態のほうが、想像が難しい。
私にとって、階段を上るということは、物心ついてからずっと程度の差はあれ、億劫で手すりが必要でできればやりたくないことだった。でも、それでも階段を上らなくては生活できないので上る。それが当たり前。苦労込みでやることだと思っていると、「できる」というイメージの中には、あらかじめ苦労の感覚まで含まれている。さらにいえば、それが「苦労」なのだという自覚もない。
これって、辛いことなの?もともとこういうもんじゃないの?他の人ってどういう感覚でこれやってるの??
…ということなのだが、ここまで言語化できるとすれば、もう全然客観的に見ることができているってもんで、こういうふうに意識することもできない感じ。
「できる/できない」が出てくると、いや~な気分になるのは、
この「できる」の影に隠された、自分にすら意識されなかった、まして他人には全然分かるわけもないと感じていた、苦労や大変さが疼くからかもしれない。
私は何年も前から同じことを言っている。
こういう診断書を書くとか、そういう機会には、毎度同じようにナーバスになる。
理屈では分かるけど。ひとつの尺度としてできる/できないを使うことの必要性とか、そうするしかないこととか。診断書の内容もそれだけじゃないしね~。わかるけど。
でも、私の感情は落ち着かないの。
このテーマでは感情的になるし、消耗するの。
いつまでも引っかかるということは、感情の傷は癒えていないの、きっと。
いっそのこと、「できない」だったら楽なのか?
いやいや、そういうことじゃなくて、苦労してでもできることのありがたさと可能性の広がりも知っているの。
そのほうが良いという価値観も、根深く残っているし。(面倒な価値観だ。ここから自由になりたいぜ。)
「できる」自分でいたいから、よけい感情的に混乱するんだな。
ぶっちゃけ、誰が見ても「できない」状態をアピールするのに、車椅子は相当役に立っていて、車椅子を使っているときのほうが、この葛藤は少ない。でも、実際問題、行動はかなり制限されるので、歩けるところは歩くけど。
とにかく「も~!私にできるかできないかなんか、聞かないで!!」て切れてみたい気分になるのだ。
あ~~~診察億劫。
(でも必要があるから、最終的には自分のためになることだし行くけどね。)